ウィーンの名物ケーキ、ザッハトルテの名前をめぐって、ふたつの老舗が7年にわたって争ったことがあります。1954年、ホテル・ザッハーが菓子店デメルを訴え、1963年に和解が成立しました。以来、「オリジナル」を名乗れるのはホテル・ザッハーだけになっています。
チョコレートケーキの王様とも呼ばれるこのケーキは、なぜ裁判にまでなったのか。この記事では、ザッハトルテの誕生から、裁判の経緯、ふたつの店のケーキの違い、そして本場での食べ方までをまとめます。
ザッハトルテの基本
- 1832年、16歳の見習い料理人フランツ・ザッハーが考案したとされる
- ホテル・ザッハーとデメルが、1954年から7年間「オリジナル」の名をめぐって争った
- ホテル・ザッハーは生地の中にもアンズジャムをはさみ、デメルは表面の下にだけ塗る
- 本場では、甘くない生クリームを添えて食べる
16歳の見習いが生んだケーキ

ザッハトルテの始まりは、1832年とされています。オーストリアの宰相メッテルニヒが、客をもてなすための新しいデザートを求めました。ところが料理長が病気で休んでいたため、当時16歳の見習い料理人だったフランツ・ザッハーが代わりに作ったのが、このケーキだと伝えられています。
チョコレートを使った生地にアンズのジャムを塗り、全体をチョコレートの衣で覆う。材料そのものは当時として珍しいものではありませんでしたが、組み合わせと仕上げの美しさが評判になりました。
フランツの息子エドゥアルト・ザッハーは、ウィーンの菓子店デメルで修業し、父のレシピに手を加えました。デメルでは、このケーキを「エドゥアルト・ザッハーのケーキ」として売り出します。のちにエドゥアルトは独立して1876年にホテル・ザッハーを開き、ホテルでもザッハトルテを出すようになりました。
「オリジナル」をめぐる裁判
ひとつのケーキを、ゆかりのあるふたつの店が売る。この状態は長く続きましたが、20世紀半ばに問題になります。ザッハー家の子孫がデメルで働き、ザッハトルテを売る権利をデメルに渡したと主張されたのです。
1954年、ホテル・ザッハーは「オリジナル・ザッハトルテ」という名前を使う権利をめぐって、デメルを訴えました。裁判は7年に及び、ウィーンでは「甘い7年戦争」とも呼ばれました。
争点のひとつは、ケーキの中にジャムをはさむかどうかでした。裁判では、作家フリードリヒ・トールベルクが証人として呼ばれ、かつてのザッハーのケーキは真ん中で切ってジャムをはさむことはなかった、と証言しています。
1963年、両者は裁判の外で和解しました。ホテル・ザッハーは「オリジナル・ザッハトルテ(Original Sacher-Torte)」の名を、デメルは「エドゥアルト・ザッハー・トルテ(Eduard-Sacher-Torte)」の名を使うことになりました。
ふたつの店のザッハトルテの違い

| ホテル・ザッハー | デメル | |
|---|---|---|
| 名前 | オリジナル・ザッハトルテ | エドゥアルト・ザッハー・トルテ |
| アンズジャム | 生地を横に切り、中にもはさむ。表面の下にも塗る | 表面のチョコレートの下にだけ塗る |
| 上の飾り | 丸いチョコレートの紋章 | 三角形のチョコレートの紋章 |
| 食感の印象 | ジャムの酸味がはっきりしている | チョコレートの味が前に出る |
大きな違いは、アンズジャムの使い方です。ホテル・ザッハーのものは、生地を横に切ってジャムをはさむため、切り口に1本の線が入ります。デメルのものは生地が切れ目なくつながっていて、ジャムは表面の衣の下にだけあります。
どちらが本物かという議論は、今もウィーンで続いています。ただ、和解から60年以上たった今では、どちらもウィーンを代表するザッハトルテとして、食べ比べを目的に両方の店を回る観光客も多くいます。
ザッハトルテの作り方
ザッハトルテの生地は、チョコレートとバター、卵、砂糖、小麦粉で作ります。卵を卵黄と卵白に分け、卵白をしっかり泡立ててから合わせることで、ずっしりしながらもきめの細かい生地になります。
焼き上がった生地にアンズジャムを塗り、その上から温めたチョコレートの衣を流して、全体を覆います。この衣は、チョコレートに砂糖と水を加えて煮詰めたもので、冷えると表面が硬く、つやのある膜になります。
作り方の流れ
- チョコレート入りの生地を焼く
- 表面(ホテル・ザッハー式なら中にも)アンズジャムを塗る
- チョコレートと砂糖を煮詰めた衣を流しかける
- 衣が固まるまで置いてから切り分ける
衣を均一に流すのが、いちばん難しい工程です。温度が高すぎるとつやが出ず、低すぎると表面が波打ちます。ホテル・ザッハーのレシピは門外不出とされていて、正確な配合は公開されていません。
ザッハトルテは、生地の配合も比較的シンプルなので、家庭で作る人も多い菓子です。オーストリアの家庭向けレシピでは、表面の衣を市販のチョコレートで簡単に仕上げることもあります。ただ、カフェで出てくる硬くつやのある衣は、砂糖を煮詰める温度の管理が難しく、家庭ではなかなか再現できません。店で食べる価値は、この衣にあると言ってもいいでしょう。
本場の食べ方

ウィーンのカフェでザッハトルテを頼むと、甘くないホイップクリームがたっぷり添えられて出てきます。オーストリアではこのクリームを「シュラークオーバース(Schlagobers)」と呼びます。
ザッハトルテの生地は、日本のチョコレートケーキよりも密度が高く、少し乾いた食感です。甘さも強い。そこに砂糖を加えないクリームを合わせることで、口の中でちょうどよい甘さと、しっとりした食感になります。クリームは飾りではなく、ケーキの一部だと考えたほうがいい。
飲み物は、ウィーンのカフェらしくコーヒーを合わせるのが定番です。ミルクを泡立てて加える「メランジュ」や、エスプレッソに近い「モカ」など、ウィーンにはコーヒーの呼び方が独特に多くあります。
ウィーンで食べるときの注意
ホテル・ザッハーのカフェは、観光シーズンには店の前に行列ができます。朝早くか、夕方以降の時間を狙うと待ち時間を減らせます。持ち帰り用の木箱入りのザッハトルテは、ホテルの売店や空港でも買えます。
デメルは王宮に近いコールマルクト通りにあり、店内のショーケースには色とりどりのケーキが並びます。ザッハトルテ以外にも、アンナトルテなど店の名物が多いので、ひとつに絞れない人も多いはずです。
持ち帰り用のザッハトルテは、常温でも比較的日持ちがする菓子です。表面の衣とジャムが乾燥を防いでいるためで、土産にしやすい理由のひとつになっています。日本への持ち帰りや保存の目安は、販売店で確認してください。
ザッハトルテを育てたウィーンのカフェ文化
ザッハトルテが今も愛されている背景には、ウィーンのカフェ文化があります。ウィーンのカフェは、コーヒーを飲むだけの場所ではなく、新聞を読み、仕事をし、何時間も過ごせる「街の居間」として発展してきました。
この文化は、2011年にオーストリアのユネスコ無形文化遺産の国内リストに登録されています。大理石のテーブルに曲木の椅子、新聞掛けに並ぶ各国の新聞。そうした空間で、コーヒーとケーキを前にゆっくり過ごすのが、ウィーンのカフェの楽しみ方です。
注文したコーヒーには、小さなグラスの水が添えられて出てきます。水がなくなると、店員が何も言わずに注ぎ足してくれることもあります。長居しても急かされないのが、ウィーンのカフェの流儀です。
オーストリアのほかの名物菓子
| 菓子 | 特徴 |
|---|---|
| リンツァートルテ | アーモンドやヘーゼルナッツの生地にジャムを塗り、格子状の生地をのせて焼く。記録に残る最古のケーキのひとつとされる |
| エステルハージートルテ | アーモンドのメレンゲ生地とクリームを重ね、表面に矢羽根模様を描く |
| アプフェルシュトゥルーデル | 薄くのばした生地でリンゴを巻いて焼く。温かいまま食べることが多い |
| カイザーシュマーレン | 厚いパンケーキを細かくちぎって焼き、粉砂糖とプラムのコンポートを添える |
ウィーンのカフェのショーケースには、ザッハトルテのほかにもこうした菓子がずらりと並びます。どれも、ハプスブルク家の宮廷や貴族の館で育った菓子の流れをくんでいます。ザッハトルテだけを目当てにするのではなく、2軒目のカフェでは別の菓子を頼んでみると、オーストリアの菓子文化の幅がよく分かります。
12月5日は、オーストリアで「ザッハトルテの日」とされています。この日の前後には、カフェや菓子店でザッハトルテにちなんだ催しが行われることがあります。
日本で楽しむなら
日本でも、デパートや洋菓子店でザッハトルテを見かけるようになりました。本場の味に近いものを選ぶなら、アンズジャムが使われているか、表面が硬いチョコレートの衣で覆われているかを見てください。柔らかいガナッシュで覆ったものは、見た目は似ていても別のケーキに近くなります。
家で食べるときは、冷蔵庫から出して少し置き、常温に戻してから切ると、チョコレートの香りが立ちます。泡立てた生クリームに砂糖を入れずに添えれば、ウィーンのカフェに近い食べ方になります。
1つのケーキを2つの店が守り続けている
ザッハトルテは、16歳の見習いが考案し、息子が磨き上げ、ふたつの老舗が名前をめぐって争ったケーキです。和解から60年以上がたった今も、ホテル・ザッハーとデメルは、それぞれのやり方でこのケーキを作り続けています。
ウィーンを訪れたら、ジャムの入り方の違いを確かめながら、2つの店で食べ比べてみてください。ヨーロッパ旅行の準備についてはヨーロッパ旅行の「敷居が高い」は本当かにまとめています。
出典:Wikipedia「Demel」「Hotel Sacher」、ホテル・ザッハー公式サイト、wienerleben.at「Wiener Sachertorte」





