高村光太郎が日本を発ったのは1906年2月、23歳のときです。帰国は1909年6月。3年4か月にわたる留学でした。
行き先は一箇所ではありません。ニューヨーク、ロンドン、パリ、そしてイタリア。都市を移りながら学んでいます。
彫刻家として何を得て、帰国後に何が起きたのか。
滞在の経路
- 1906年2月〜1907年6月:ニューヨーク
- 1907年6月〜1908年6月:ロンドン
- 1908年6月〜1909年3月:パリ
- 1909年3月:イタリア
- 1909年6月:帰国

1.
プロフィール
高村光太郎は1883年、東京に生まれました。父は木彫家の高村光雲。上野の西郷隆盛像を手がけた人物です。
東京美術学校(現在の東京藝術大学)彫刻科を卒業。家業を継ぐことが当然視される環境にありました。
留学は、その延長として計画されたものです。西洋の技術を学び、帰国して日本の彫刻界を担う。周囲の期待はそこにありました。
結果として、光太郎が持ち帰ったのは技術ではなく、別のものでした。
2.
ニューヨーク
最初の滞在地はニューヨークです。1906年2月から約1年4か月。
彫刻家ガストン・ボーグラムの助手として働きながら学びました。制作の現場に入ることで、実務としての彫刻を経験しています。
この時期の記録には、日本的な倫理観から解放されたという趣旨の記述が残されています。家の期待や慣習から距離を取る経験が、ここで始まりました。
メトロポリタン美術館で、ロダンの実作に初めて接したのもニューヨークです。後の決定的な出会いの、最初の接触でした。

3.
ロンドン
1907年6月からの1年間はロンドンで過ごします。
大英博物館に通い、古代ギリシャとエジプトの彫刻に魅了されたと記しています。近代の技法ではなく、古代の造形に向かった点が興味深い。
この時期、陶芸家のバーナード・リーチと出会っています。後に日本の民藝運動と深く関わることになる人物です。二人の交流はここから始まりました。
光太郎はロンドンで「真のアングロサクソンの魂に触れた」と述べています。言語と社会の両面で、西洋を内側から見る経験になったようです。
4.
パリと
ロダン
1908年6月、パリへ移ります。滞在は9か月ほどでした。
この期間を、光太郎は「完全な大人になった」と表現しています。3年の滞在の中で、最も大きな変化があった時期とされます。
ロダンとの関係は、しばしば誤解されます。光太郎はロダンに直接師事していません。作品そのものから学ぼうとしました。
デッサン展を見た経験が記録に残っています。そこから学んだのは、構造、量塊、そして動勢。彫刻を形の集合ではなく、力の関係として捉える見方です。
帰国後、光太郎はロダンの紹介者としても活動します。日本にロダンの思想を伝えた役割は大きい。

5.
帰国後に
待っていたもの
1909年6月に帰国した光太郎を待っていたのは、失望でした。
日本の美術界の状況に強い憤りを感じたと記録されています。西洋で見てきたものと、帰国後に置かれた環境との落差が大きすぎた。
この時期、光太郎は批評家として発言を始めます。新しい芸術思潮を紹介し、旧来の体制を批判する。彫刻家としてより、言論の人として動いた時期です。
その後、長沼智恵子との出会いを経て、再び制作へ向かいます。内向的な作風へ転じ、〈裸婦坐像〉〈手〉といった作品が生まれました。
留学の成果は、帰国直後ではなく、数年から十数年を経て形になったことになります。
6.
この留学の
特徴
現代の目で見ると、いくつか特徴があります。
第一に、移動を前提とした設計です。一箇所に定住せず、都市ごとに違うものを学んでいます。ニューヨークでは実務、ロンドンでは古代、パリでは近代。
第二に、師に就かなかったことです。ロダンの作品から直接学ぶという方法を選びました。制度の外で学ぶ形式です。
第三に、帰国後の落差です。留学で得たものが、そのまま国内で活かせるとは限らない。むしろ落差そのものが、その後の活動の動機になりました。
7.
「十人十旅」の
視点から
この連載では、旅が人に何を残すのかを見ています。光太郎の事例から読み取れることを挙げます。
第一に、期待された成果と実際の成果がずれたことです。周囲は西洋の技術を学んで帰ることを期待しましたが、光太郎が持ち帰ったのは美術に対する考え方そのものでした。
第二に、成果が現れるまでの時間です。帰国直後の光太郎は、憤りを抱えた批評家として動きました。彫刻家としての代表作が生まれるのは、さらに後のことです。
第三に、移動そのものの意味です。一箇所に留まっていれば、これだけ多様な刺激は受けられなかった。ニューヨークの実務、ロンドンの古代、パリの近代。順序も含めて効いています。
旅の成果を、帰国直後に測ることはできない。この事例はそのことを示しています。
効いてくるのは何年も先
高村光太郎の留学は、ニューヨーク、ロンドン、パリを移動する3年4か月でした。ロダンに師事せず、作品から構造と量塊を学んでいます。
帰国後に待っていたのは失望であり、その憤りが批評活動の動機になりました。留学の成果は、帰った直後ではなく長い時間をかけて現れたことになります。
出典:高村光太郎の留学に関する美術館資料ほか







