夏目漱石のロンドン留学【十人十旅】|5つの下宿と『文学論』が生まれるまでの2年間

夏目漱石がロンドンに着いたのは1900年(明治33年)10月28日です。帰国の船に乗るためロンドンを離れたのは1902年12月5日。およそ2年1か月のあいだに、漱石は下宿を5回替えています。

のちに『文学論』の序で、漱石はこの期間を「尤も不愉快の二年」と書きました。それでも、この2年がなければ『吾輩は猫である』も『倫敦塔』も、いまの形では書かれていません。辞令から帰国までを、日付と金額でたどります。

夏目漱石の英国留学の概要

  • 期間:1900年10月〜1902年12月(明治33〜35年)
  • 立場:文部省の給費留学生。研究題目は「英文学」ではなく「英語」
  • 留学費:年1,800円(月150円)。熊本での月給100円より多いが、ロンドンの物価では足りなかった
  • 住まい:2年あまりでロンドン市内の下宿を5回移った
  • 最後の下宿(81 The Chase)には2002年、イングリッシュ・ヘリテッジのブルー・プラークが付いた

熊本の英語教師に届いた「英語研究」の辞令

1900年5月、熊本の第五高等学校で英語を教えていた漱石に、文部省から2年間の英国留学が命じられました。満33歳。自分から志願した留学ではありません。

命じられた研究題目は「英語」でした。英文学ではない。漱石は『文学論』の序で、この点に戸惑ったことを書き残しています。文部省に問い合わせ、ある程度は自分の判断で研究してよいと解釈して出発しました。この「英語か英文学か」のずれが、のちにロンドンで独自の文学理論に向かう伏線になります。

9月8日、ドイツの汽船プロイセン号で横浜を出港します。同じ船には、ドイツへ向かう国文学者の芳賀矢一や独文学者の藤代禎輔も乗っていました。10月19日にイタリアのジェノヴァで上陸し、陸路でパリへ。開催中のパリ万国博覧会を見てから、10月28日にロンドンへ入りました。

日本には妻の鏡子と、1899年生まれの長女・筆子が残りました。次女の恒子が生まれたのは、漱石がロンドンにいた1901年1月です。1901年2月20日付の鏡子あての手紙には「おれの様な不人情なものでも頻りに御前が恋しい」とあります。

年1,800円では足りなかったロンドンの暮らし

文部省から支給された留学費は年1,800円、月にして150円でした。熊本での月給は100円だったので、額面だけ見れば給料より多い。問題はロンドンの物価でした。

漱石は妻への手紙で、日本の1円が当地の10円くらいの感覚だと書いています。昼食は1皿で60〜70銭。最初の下宿は1日6円かかり、このままでは月150円のほとんどが部屋代で消えます。最初の下宿を2週間ほどで出た理由のひとつが、これでした。

項目金額メモ
第五高等学校の月給100円留学前の収入
文部省の留学費年1,800円(月150円)家族への手当は別
最初の下宿(76 Gower Street)1日6円月に換算すると留学費を超える
クレイグの個人授業1回5シリング約1年間通った
昼食1皿60〜70銭ビスケットで済ませる日もあった

浮いたお金は本に消えました。漱石はビスケットをかじって昼食代を削り、その分で英文学の本を買い集めています。帰国時の荷物の大半は本で、この荷造りが後の「帰国騒ぎ」にも関わってきます。

大学を数か月でやめ、個人授業と読書に切り替える

到着後、漱石はまずケンブリッジを訪ねましたが、学費と生活費の高さから入学をあきらめています。ロンドンではユニバーシティ・カレッジで英文学者W.P.ケアの講義を3〜4か月聴講し、やがて通うのをやめました。

代わりに選んだのが、シェイクスピア研究者ウィリアム・ジェームズ・クレイグの個人授業です。ベーカー街近くのクレイグの部屋に、週1回、約1年間通いました。1回5シリング。この老学者の姿は、のちに随筆集『永日小品』(1909年)の「クレイグ先生」に描かれています。

後半の漱石は、ほとんど下宿にこもって本を読み、ノートを取り続けました。東北大学附属図書館に残るロンドン時代のノートは、細かい字でびっしり埋まり、積み重ねると5〜6寸(15〜18cmほど)の高さになります。

2年あまりで5回替えた下宿

下宿を転々とした理由は、部屋代、家主との相性、通いやすさなど、その時々で違います。5軒の建物はいずれも現存しています。

順住所地区時期の目安
176 Gower Streetブルームズベリー1900年10月〜11月(約2週間)
285 Priory Roadウェスト・ハムステッド1900年11月〜(約1か月)
36 Flodden Roadキャンバーウェル1900年12月〜1901年4月
45 Stella Roadトゥーティング1901年4月〜7月
581 The Chaseクラパム・コモン1901年7月〜1902年12月

3軒目と4軒目では、同じブレット家の世話になっています。家主一家の引っ越しに漱石もついていった形です。最後の下宿はリール姉妹という年配の女性2人の家で、滞在はここが最も長くなりました。気のふさぐ漱石に自転車を勧めたのもこの家の人たちで、その顛末は帰国後の『自転車日記』に書かれています。

化学者・池田菊苗と暮らした2か月

1901年5月5日、トゥーティングの下宿に、ドイツ留学を終えた化学者の池田菊苗がやってきます。のちに昆布のうま味成分グルタミン酸ナトリウムを見つけ、「味の素」の生みの親になる人物です。2人は約2か月、同じ家で暮らしました。

漱石は後年の談話「処女作追懐談」で、池田は理学者だが話してみると偉い哲学者で、自分は議論で「大分やられた」と振り返っています。寺田寅彦への手紙には、池田との交流で進むべき道がはっきりしたと書きました。印象批評ではなく、心理学や社会学を使って「文学とは何か」を組み立てる。『文学論』の方針は、この同宿の時期に固まっていきます。

ヴィクトリア女王の葬列と、日英同盟の年

漱石の滞在は、イギリスの時代の変わり目と重なっています。1901年1月22日、ヴィクトリア女王が亡くなりました。在位は1837年6月からの63年7か月。当時のイギリス史上最も長い治世でした。

2月2日、漱石は下宿の主人ブレットと一緒にハイド・パーク近くへ葬列を見に行きました。身長約159cmの漱石には人垣で何も見えず、ブレットが肩車をしてくれたと日記にあります。翌1902年1月30日には日英同盟が結ばれ、日本とイギリスの関係は新しい段階に入りました。

当時のロンドンは石炭の煤煙がひどく、冬は昼でも薄暗い日が続きました。漱石の日記や手紙にも、黒い痰や霧への嫌悪が出てきます。気候だけで心身の不調を説明することはできませんが、下宿にこもりがちな生活をさらに重くしたのは確かです。

「夏目狂セリ」は本当に打電されたのか

漱石の留学でよく語られるのが、文部省に「夏目狂セリ」という電報が届いたという話です。ただ、この電文そのものを確かめられる史料は見つかっていません。後年の回想から広まった言い伝えと考えたほうが安全です。

確かに残っているのは、ドイツ留学中だった藤代禎輔の回想です。留学期限が切れる1か月ほど前、藤代のもとに漱石を保護して一緒に帰国せよという指示が届きました。漱石の精神状態が「大袈裟に当局者の耳に響いた」ためだと藤代は書いています。ロンドンで会った藤代は、別段心配するほどではないと判断しました。漱石は買い込んだ本の荷造りを理由に同行を断り、藤代は先に帰国しています。

帰国後、『吾輩は猫である』と『文学論』へ

漱石は1902年12月5日にロンドンを発ち、1903年1月20日に長崎、23日に神戸に着き、24日に東京へ戻りました。3月末で第五高等学校を退職し、4月から第一高等学校と東京帝国大学の講師になります。帝大ではラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の後任でした。

1905年1月、雑誌『ホトトギス』に『吾輩は猫である』の連載が始まります。同じ年には、ロンドン塔を訪ねた体験をもとにした短編『倫敦塔』、チェルシーの思想家の旧宅を訪ねた『カーライル博物館』も発表しました。1907年には帝大での講義をまとめた『文学論』を刊行し、同年、教職を辞めて朝日新聞社に入社して専業作家になります。

孤独、自意識、西洋と日本のあいだで揺れる知識人。こうした題材は『三四郎』や『それから』『こころ』にも繰り返し出てきます。ロンドンで「他人の借り物ではない自分の立場」を探した経験が、その土台にあります。同じ時代に国費で海外へ渡った文学者として、森鴎外のドイツ留学と比べると、2人の留学の手触りの違いがよく分かります。

ロンドンで訪ねられる漱石の足跡

5軒の下宿のうち、見学の目印になるのは最後の家、81 The Chaseです。玄関横にはイングリッシュ・ヘリテッジが2002年に設置した青い銘板があり、「NATSUME SOSEKI 1867-1916 Japanese Novelist lived here 1901-1902」と刻まれています。ブルー・プラークは市ではなく、歴史的建造物を管理する団体の事業です。いまも個人の住宅なので、見られるのは外観だけです。

向かいの80b The Chaseには、恒松郁生さんが1984年に開いた「ロンドン漱石記念館」がありました。32年間運営されましたが、2016年9月28日を最後に閉館しています。古いガイドブックに載っていても、いまは入れません。

場所住所2026年時点の見学情報
最後の下宿(ブルー・プラーク)81 The Chase, Clapham, SW4個人宅のため外観のみ。最寄りは地下鉄クラパム・コモン駅
最初の下宿76 Gower Street, WC1外観のみ。ユニバーシティ・カレッジのすぐそば
ロンドン塔(『倫敦塔』の舞台)Tower Hill, EC3大人£37(2026年10月1日から£38)。見学は3時間以上が目安
カーライルの家(『カーライル博物館』の舞台)24 Cheyne Row, Chelsea, SW3毎週水曜のみ、時間指定の事前予約制。大人£12

クラパム・コモン駅からThe Chaseまでは歩いて10分ほどです。ロンドン塔とチェルシーを組み合わせれば、1日で漱石の作品の舞台を2つ回れます。ロンドンで学ぶ場合の費用やビザについては、ロンドン留学の8つの特徴で整理しています。

つらかった2年が、作家・漱石の出発点になった

足りない留学費、合わない大学、5回の引っ越し、帰国をめぐる騒ぎ。漱石の留学は、成功談として語れる要素がほとんどありません。それでも、下宿にこもって積み上げたノートが『文学論』になり、ロンドン塔を歩いた記憶が『倫敦塔』になりました。

海外で思うようにいかない時間は、その場では失敗にしか見えないものです。漱石の場合、その意味がはっきりしたのは帰国して2年後、小説を書き始めてからでした。芸術家の留学としては、高村光太郎の美術留学も、同じ時代の日本人が西洋でぶつかった壁を知る手がかりになります。

出典:東北大学附属図書館「漱石の生涯 英国留学時代」、熊本市西区「漱石の英国留学」「漱石帰朝そして五高辞職」、English Heritage「Natsume Soseki blue plaque」、味の素グループ「夏目漱石と池田菊苗、ロンドンでの出会い」、サライ.jp「日めくり漱石」、英国ニュースダイジェスト(2016年9月)、Historic Royal Palaces、National Trust、夏目漱石『文学論』序

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